石田(實)記念財団20周年記念講演

平成20 年10 月24 日

石田 哲爾




題目 大井電気に入社した頃

 大井電気の創立者石田實の思い出をお話する予定でいましたが、なかなかここでお話しする適当なことが見当たらないので、社長の企てと思われる、私が大井電気に一人の技術者として入社したころの苦労話をさせていただきます。
 石田實は明治41年3月15日生まれで、今年が生誕100年に当たります。
 昭和24年夏、石田實が41歳の時、大井電気は東京都世田谷区東玉川の自宅の6畳の部屋で誕生しました。社員は通信機メーカに勤務していたときの同僚(三好徹さん=昭和58年死去、熊谷清さん、片桐康さん、篠原博さん)でした。半年ほどで五反田に小さな建物を借りて引っ越しました。大井電気の名称は多分大井町付近に工場を作る予定で会社名を決めたようです。そこが何かの都合で借りられず五反田で開業しましたが、名称は大井電気のままにしたようです。
 私はまだ高校1年生。病気療養中で、別室で寝ていました。

 私が大井電気に入社したのは、昭和42年10月です。大学を出て10年目でした。M社で10年余り働いて係長になっていました。42年の夏頃、課長に呼ばれ、君は大井電気に行くことになっているそうだが、行くのがどうしてもいやなら交渉してやると突然言われました。M社に入社するときコネに頼ることなく、学校の推薦で入社したのに、何故大井電気に行けといわれたのか納得が行きませんでした。大きなミスをした覚えもなく退職の希望も出していませんでした。
 当時、M社K製作所は大赤字、アメリカの企業と合弁会社を設立したが軌道に乗らず、辞めてゆく技術者が多数出ていました。私も合弁会社との折衝で苦労していましたので、ここが潮時と思い、思い切って転職を決心しました。
 10月1日、大井電気に出社して、中野総務部長のところに挨拶に行きますと、あんたはえらい時に入社しましたね。卓上計算機アレフゼロの量産に失敗し、その後始末に菊名の土地を半分売ってなんとか銀行と話が纏ったが、大問題は大赤字のスーパーを何とかしないと大変なことになります。何とかお願いしますと言われました。
 三好事業部長の下で、技術課長として、スーパー=遠方監視制御装置を来年3月までに安くて良い製品を作って欲しいといわれました。大井電気で作られていた遠方監視制御装置について調べて行くと、装置そのものはあまり難しいところもなく、容易に理解できました。電力会社の技術開発を指揮していた高木利夫さんのアイデアで、当時使われ始めたトランジスタを使って、無人の変電用変電所を集中監視する情報伝送装置を実用化することでした。変電所の50項目ほどの監視情報を10項目づつグループに分け、通信線でシリアル信号として監視所に伝送し、表示盤に変電所情報として表示させます。情報は常時サイクリックに約2秒周期で伝送され、もし受信情報に誤りが検出されればその情報は棄てられます。チェック機能は同じグループの情報を2回送り、2回の情報が一致することと、パリティーチェックが正常であることであります。正しいと判断された受信情報が読み込まれ、もし、監視情報に変化があると、アラームのベルが鳴り、変化した情報表示ランプを点滅させます。したがって、誤った情報が受信表示されるとアラーム機能が働くため、装置の故障としてクレームがきます。伝送路の雑音、信号歪み、変電所の電源変動、雑音に耐えて確実に動作することが求められます。反対方向の情報は制御信号であります。監視所の担当者が無人変電所の機器をリモートコントロールするとき、制御情報を送信します。常時サイクリックに送られますが、制御するとき以外は制御なしのコードを情報伝送のチェックのため送られだけです。
 すでに大井電気で製作していた製品は技術的に、変電所内の環境条件で、正常な動作をさせるために名人芸の調整を必要とし、調整に苦労していました。
 また採算の面では、売値220−240万円に対し、材料費が180万円、原価率は200%を超える装置でした。しかも動作は不安定で、課の遠方監視制御装置担当者はほとんど全員納入された装置の現地調整等に出かけて、係長以下ほとんど席にいませんでした。新たに設計担当者として検査から1名が配置転換されましたが、全く設計のノウハウを持っておらず、居眠りをしているか、以前に納入された機器の修理に出掛けるかで、新たに安く、しかも変電所の現場で安定に動作する機械を43年3月までに作る努力をする気配はありませんでした。

緊急に試作しなければならない遠方監視制御装置の概要

設置場所 電力会社の無人配電用変電所。 子装置。
それを集中的に監視する制御所。 親装置。
伝送路 電話に使用される通信線。200ボーのFS信号で情報伝送する。
製作範囲 無人変電所側;設備を監視する信号端子から伝送路と送受信する端子まで。 監視される変電所の機器との接続部はNK社が製作する。
供給される電源:DC110V
監視所側:伝送路との送受信端子から変電所の状態を監視する表示盤へ送る信号端子。表示盤はNK社が製作する。
変電所の遮断機等を制御所の表示盤の操作信号を受けて、伝送路へ制御信号を送信する端子まで。
供給される電源:DC110V
納期 翌年3月下旬。NK社の機器と接続試験。立会い試験の合格すること。

 現在稼動中の装置で変更すべきだと考えた主な回路を2−3あげます。
 まず、200ボーFS伝送の5msの時間の基準にOne shot multiと言われるCR時定数で作られた回路が作られていましたが、電源電圧、温度変動に弱くとても製品に使用できないと判断し、クリスタル発信素子を使用した発信器による安定した時間基準に変更しました。
 次に、情報を蓄えるフリップ・フロップ回路は入力から1ミリセカンド以下の瞬間的な雑音では反転しないよう思い切り動作が鈍いものを設計しました。また電源から入るサージ雑音や電圧の変動にも強いことにも配慮を行いました。
 最も頭を痛めたことは、供給される電源が重電機器に使われるDC110V(停電時に機器を作動させるバッテリー電源)しかなく、それをトランジスタ回路で使われるDC20V以下に下げる必要がありました。その当時、一旦ACに変換して適当なDC電圧にする方法はありましたが、故障する確率が高いうえ値段が高いことが障害でした。強引な考えでしたが、変電所で使われる機器であり、消費電力が多少大きくても許されると考え、ホーロー抵抗で分圧するだけの簡単な方法で、トランジスタ動作に必要な電圧の電源としました。これは電源のノイズ対策にもなりました。
 幸いにも、仕事が暇な技術者がいましたので、わたしの設計した回路の確認試験とプリントパターンの設計に協力してもらい、予定通りの期間で設計できました。

 一方、原価低減のため安い部品を探すことも平行して進めました。
 既存の設計では1システムの材料費が180万円。これを半分以下に下げなければ採算が取れないことがわかっていましたので、大井電気で使われている標準部品より安いものをさがし、その使用を考えました。
 その例を下記に示します40年以上昔のことで覚え違いはお許しください。



抵抗
トランジスタ
プリント基板
大井電気で使用している標準部品

通信機器用RD型 一本16円
通信機器用 一個85円
紙エポキシ樹脂定尺 約3000円
遠方制御監視装置の使用部品

ラジオテレビ用絶縁型1本3円
計算機用  1個50円
フェノール樹脂定尺一枚 約1500円

 さらに、購買部門の値段交渉で1割ほど安く購入されました。
 試作ロットの購入材料費は3セット分で約180万円(1台分60万円)と目標を大幅に下げることができました。3月中旬装置の製作が終り、1階の検査場に据付けられました。私が検査場に行き、電源回路の接続に間違いないことを確認して、電源を入れて動作試験を行いました。電解コンデンサの極性指定のミスがあり、コンデンサが熱でパンクする等設計ミスは若干ありましたが、2日程度でなんとか仕様を満足する動作が確認できましたので、あとを検査課に引き継いでもらいました。
 4月に入り、続々と新設計の遠方制御装置が製作され、各地の変電所に納入されて行きました。夏になり、気温が上昇すると、あちこちから、動作不良のクレームが入りました。保守要員が出かけてトランジスタを交換して平常に戻ったとの報告がありましたが、トラブルは無くなりません。1回の誤った情報受信があっても装置故障とみなされるので回路に弱点があると予想されました。会社の夏休みには私が重いシンクロスコープを担いで調査に行きました。無人の変電所に行った経験はこの1回だけですが、現場を見て装置の環境は予想以上に良いことがわかりました。 装置の蓋を開けて調べた段階では、予想通り正常に動作していました。電力会社の人が居る前で、回路の動作状況をチェックして行きますと、シンクロスコープに出た電圧波形が崩れているところが見つかりました。調べてゆくと、抵抗値の指定ミスで一桁近く抵抗値が高く、正常な電流が流れず、装置の内部温度が上がるにつれ動作が不安定になったことがわかりました。
 以後、数年間は大きなトラブルが私の耳に入ることはありませんでした。

 この遠方監視制御装置は電力会社の研究開発担当の役員をされた高木利夫さんのアイデア――サイクリック常時伝送方式――を実用化するため特に大井電気の石田實社長の開発姿勢が評価され、開発を依頼されたものでした。大メーカーはなにかと理由をつけて、すぐに開発に着手してくれないと高木さんは嫌っていました。
 大井電気の技術力と社長の決断の速さは、高木さんに絶大の信用がありました。しかしながら、期待に応えた上に、利益が出る装置の開発は現状の大井電気の従業員だけでは無理と判断され、それができる技術者を社外に求めたのも当然と考えられます。だれでも良かったと思いますが、石田實社長が提携先M社の幹部に手を回し必要な技術者を確保したものと考えられます。もし、大井電気の技術で継続して生産を続けていたらどうなっていたでしょう?良い決断をされたと考えます。

 石田記念財団は創立20周年を迎えました。現在もその傾向があるようですが、創立当時=平成元年頃はバブル景気で、理系の大学卒業者は極端な売り手市場でした。給料が高いことから、金融機関に就職する人が多く、まじめに開発に努力する企業は技術者が集まらず、非常に困っていました。私はこのような状態では日本工業の発展に必要な開発力が弱体化すると憂慮し、何かのお役に立ちたいと考え石田財団を作りました。基金も少なく、まだその成果はあまり出ているようには見えませんが、今後、多少でも日本の工業力に発展に貢献できる財団になることを期待して、話を終わります。



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