故 石田 實氏を偲んで

大井電気株式会社 元常務取締役
日本フィールド・エンジニアリング株式会社 元社長


熊谷  清 氏




 石田(實)記念財団創立10周年おめでとうございます。私は財団とも関係の深い大井電気に於いて、石田實さんとは長い間仕事を一緒にして参りましたので、まずは大井電気の設立当初に溯って話をしたいと思います。

 石田實さんは昭和六年、東北大学電気科卒業であり、私は九年程遅れて昭和十五年に電気科を卒業しました。卒業後、私は東京の某通信機メーカーに入社しましたが、そこに石田先輩がおられ、それが初めての出会いとなりました。その会社は私の入社当時、有線部門と無線部門との二つがありましたが石田先輩はその時既に会社の有線部門のトップであり、私は軍用の無線機を作る無線部門の方に配属されました。その為、当時は石田先輩に直接ご指導をいただいたという記憶はなく、入社後一年足らずで私が徴兵となったため、戦前の石田先輩とのお付き合いというのはそれ程深いものではありませんでした。私は兵隊を四年半程勤めましたが、ご承知の様に終戦ということになって命からがら帰ってきて会社に顔を出し、石田先輩にご挨拶をした際に「熊谷君、もう無線は駄目だからこれからは有線の方に来い。」と言われ、無線屋が有線屋に鞍替えさせられまして直接の部下になったという訳です。

 ところが当時働いていた会社は、無線を主として特に兵器を作っていた会社のため、戦後の混乱の中で企業の立ち上がりが上手くいかず、仕事が無い、給料が無いという状態でした。一般にどの会社も同様の状態ではありましたが、軍需品の占める分野が多かっただけに特に酷いものでした。給料の遅配、欠配から仕事が無い状態が続き、必然的に社内が揉めて何人かいた東北大の後輩も我慢しきれなくなって一人、二人と去っていきました。そうした状況の中、石田先輩に「これはもう駄目だ。搬送通信というものは少なくとも十人位の人間がいなければ成り立たない。自分で会社を興すからお前も一緒に来ないか。」と声を掛けられ、現在の「大井電気」という会社が誕生し私も参加することになった訳です。石田先輩から「社員は総員5名で始めるんだ。お金も無いし、道具も材料も無い。「無」から始まるんだ。」ということを言われ、これには私も正直びっくりしましたが、何はともあれ石田先輩の自宅で細々と仕事が始まりました。まず物を作るには測定器が無ければ駄目だということで測定器を自作する様なことから始まり、その年の九月にやっと五反田の方に工場の場所を見つけて引っ越しました。それでも人数は変わらず、何とか搬送の機械を売って続けていこうと必死の思いで1号機を作り売ることができました。これも今にして思えば、当時の我々の窮状を見て店舗の方或いは先輩の方々等が我々の創業を助ける意味で買って下さったのではなかったかと思います。当時の主なお客様は電力会社、国家地方警察(現在の警察庁)等ですが、その国家地方警察にも先輩がおられて小さい搬送機を買って頂き、昭和二十五年一月にやっと初めて「大井電気株式会社」という名前で登録し世の中に認められる存在となった訳です。

 この創業時代を振り返ってみましても、何とか会社として動き出すまでの間、当時のご縁故の方々、先輩の方々には本当にお世話になったものです。石田社長自らが注文を集めに全国を廻り「私の会社ではこういうことが出来ます。」と必死になって注文を取ってこられました。私共はその注文の品を何とか作って納めるという様な状態でしたが、少しずつではありますが会社の規模が大きくなっていきました。思い起こしますと昭和二十七年頃だったでしょうか、ある電力会社から大口の注文があったのですが、それを何とか無事仕上げることが出来てこれが当時としては大変な収入となったため漸くは大井電気も息をつくことができました。その後、続々と追加注文があって何とか本当の意味での基礎が安定しました。小さな会社でしたから普通のことをやっていたのでは大きな会社に太刀打ち出来ないということで「とにかく珍しい物をやろう、まだ世の中に出ていない物を作ろう。そしてお客さんに認めて貰おう。」と頑張ったことが思い出されます。

 搬送電話が一段落して軌道に乗った時点でもう少し範囲を広げて新しい事をやり、お客さんの需要に応じようということで一つにはパラメトロンを使ったもの、もう一つにはボコーダを搬送電話に乗せたものという二つのテーマを始めました。昭和三十年代は将来の計算機がパラメトロンでいくのかトランジスタでいくのかどちらかわからないという状況の中で大きな会社は両方に研究を分散してやっていたという時代でした。縁あって私はパラメトロンの方に携わった訳ですが、その後も勉強を重ねてパラメトロンで計算機も作れる様な技術を習得するに至りました。その後はパラメトロンで電池パビリオン式の計算機を作る、ポケットベルを作る等大きなテーマもありました。他にも色々なものがありましたがその中でもパラメトロンで作った電池式パビリオン計算機は日本で初めての、いわゆる机の上に乗る計算機ということで自慢できるものだと自負しております。しかしながら、いかんせんトランジスタ方式にすぐに圧倒されてしまい、結果としてはとても太刀打ち出来ませんでした。これは大変に残念な結果でしたが、会社としては大変な損害をもって卓上計算機に幕を引きました。ですがそれ以前にパラメトロンで工作機械を数値制御する装置など色々なことをやってそれなりに勉強にはなりました。失敗はしましたけれども、大井電気で搬送以外のデジタルというものを扱うことの切替えの最初になったものと思われ貴重な体験と言えます。

 それから、もう一つのボコーダというものですが、これは出来たことは出来たのですが音質がいまひとつということで普通の通信回線に乗せることは出来ず、電話としては成り立ちませんでした。ところがひょんな所で息を吹き返し、通信途中での通信内容が聞き取れないということが逆にメリットになる、言うなれば機密防止としての用途でこれを鯨捕りの船に使いたいという話が出てきました。鯨捕りというのは日本の船団が南太平洋に出掛けて行って魚や鯨を捕るわけで、各船に期間、捕鯨数等の割り当てがあります。国内各社の競争は結局のところ、鯨を見つけて早く捕った者、即ち早い者勝ちであり、鯨捕りの前に鯨が何処にいるか偵察する船を出して通報するわけですが、無線が他の船にも筒抜けのため結局のところは一番近くに居た者が捕りに行ってしまうという結果になります。それでボコーダを入れると相手には聞こえないというメリットがあり、その機会に購入していただいたという訳です。幸運にもその年はボコーダを付けた船が一番の捕鯨数で、それがきっかけでボコーダというものが装置としても使われる様になり、やっと商売になったという訳です。

 また、一時代を築いたポケットベルについては次の様な裏話があります。石田社長の大学同期の方がヨーロッパに出張した時に、向こうの工場でポケットベルを使って工場内を移動している人を瞬時に呼び出すのが非常に有効な手段であるのを見て、「いい機会だからお前の所で作れ。作ったら買ってやるぞ。」という話をされ開発を始めた訳です。研究開発を担当しておりました私としては当初は正直言って「う〜ん。」と唸ってしまいました。やって出来ないことはなかったのですが、当時の私の仕事の比重は計算機の方に8割、ポケットベルに2割程度でしたが、パラメトロン電卓が見事失敗したため、渋々ポケットベルを始めたという経緯があります。しかしながら、ご承知の様に「ポケットベル」という大井電気固有の商品名がその後普通名詞の様になったようにパラメトロンの失敗から完全に脱却して次世代の核となる製品に成り得たという様な次第でありました。

 その後も色々な出来事がありましたが、私は昭和四十三年に技術者としての使命を終え子会社の方に行ってマネージャーをやることになり、技術の方からは一線を退きました。 私は石田實さんとは仕事を通じて長年すぐ傍におりましたので思い出は沢山ありますが、私が思いますに石田實さんは非常に温厚かつ誠実な方で怒ったことはまず記憶にありません。例外で怒られたことも若干ありますが、それでも石田實さんが社長として私を怒ったよりは、私が社長に文句をつけたことの方が多いんではないかと思います。それ程、石田社長は温厚であり、特にお客さんに対してはとことん真面目に尽くし、顧客の信用を得ておりました。

 石田實さんは昭和五十七年に残念ながらご病気で亡くなられ、会社はご子息の石田哲爾さんが継がれましてその後益々の発展を遂げた訳でありますが、石田實さんの遺志は大井電気では新しい技術という形で、そして石田記念財団においては研究者、技術者の育成という形で立派に受け継がれているものと思われます。

 最後になりますが石田記念財団の今後益々の発展を祈念しております。

以 上

平成11年11月1日




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